初世市川右團治
幕末の江戸劇壇の第一人者であった名人市川小團次が米十郎の名で大坂で活躍していた時もうけた子である。父小團次が江戸へ去った後、初舞台を踏み、大坂で修行を重ねた。
父同様、地芸と所作に優れ、時代・世話・立役・敵役・二枚目から女形と芸の範囲は広く、京阪の人気をさらい、明治の初め頃には既に、角座の座頭であった。小團次が黙阿弥と組んで江戸の生世話物に新境地を開いたと同様、勝能進・諺蔵父子の書いたザンギリ物に新機軸を出し、明治初期の大阪劇壇に開化文明の匂いを発散させた。そして広い芸域を活かした早替りが右團治の身上で、ケレンの名人と呼ばれた。「四谷怪談」や「小幡小平次」そして「法界坊-双面」などに、独特の演出を残している。また、大阪一の踊り手といわれたほどの舞踊の名手でもあり、創った所作事も多い。
前代の初世實川延若、中村宗十郎の後を受け、明治の大阪劇界に新風を巻き起こし、次代の中村鴈治郎、十一世片岡仁左衛門につないだ。明治の変革期に、劇壇転換に当たった功績は高く評価される。
明治四十二年、斎入と改名し、実子右之助に二代目右團治を襲名させた。以後あまり舞台は踏まなかったが、叩きこんだ舞踊の才を示すとともに、二代目に芸統を伝えるための後見に徹した。
長寿を保ち、三都での引退興行を勤めたときは、既に七十三歳であったが、「操三番叟」では宙乗りを見せ、続いての「関寺小町」の枯淡な芸で感服させた。
余生を楽しむ間は短く、翌大正五年三月十八日、七十四歳で没した。
(天保14年1843年~大正5年1916年)
奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)
昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。
脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。
関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。
※当時の番附には「市川右團次」「市川右團治」の表記があり、筆者は「右團治」と記していますが、平成28年1月に襲名する名跡は三代目市川右團次、屋号は高嶋屋となります。