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市川右近、三代目市川右團次襲名披露を発表
2017年1月、新橋演舞場「寿新春大歌舞伎」で、市川右近が三代目市川右團次を襲名、息子の武田タケルが二代目市川右近を名のって初舞台を踏むことが発表されました。
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「市川右團次の名跡を三代目として襲名させていただく運びと相成りました」。右團次の名を預かる市川宗家、師匠の猿翁、二世右團次の孫である右之助への感謝とともに、襲名を明らかにした右近は、緊張しながらも喜びに満ちた声を響かせました。
昭和11年以来、81年ぶりに復活する名跡
初世、二世の右團次は、早替りなどのケレンを得意とし、関西歌舞伎に功績を残した俳優です。「私が長年、学ばせていただいたケレンの妙味の世界、そして私自身が関西出身であること、二つの縁が、このような幸せな襲名をもたらしてくれたのではないかと思い、感謝しております。この後は、我が人生を歌舞伎に捧げ、日本の伝統文化の発展のために、少しでもお力添えができればと、芸道に精進してまいる所存でございます」と、名跡の大きさに気を引き締めながらも、晴れ晴れとした笑顔を見せました。
右團次の名跡を継承することで屋号は高嶋屋となります。「澤瀉屋から離れることは一切ございませんし、師匠の弟子であることは一生変わりません。公私を問わず、師匠の生き様、芝居に対する理念を、澤瀉屋の精神を、後世の役者に紡いでいくのが私の使命。今までどおり、澤瀉屋の皆さんともどもさせていただくことに変わりはございません。澤瀉屋の精神を、右團次の名前を通して広く歌舞伎界に残していければ」と、自分の強い気持ちと役割を表明しました。
名前が変わっても師と弟子の関係は不変
右近の固い決意には、やはり師匠、猿翁との深い絆があります。「出会いは昭和47(1972)年。関西での公演では必ずといっていいほど子役に使っていただきました。50(1975)年、大阪の新歌舞伎座で市川の名字を賜り、名前は本名の右近で、師匠の直門に。今日、ここに座っているのはすべて師匠のおかげと存じております」。
猿翁からは襲名を祝うメッセージが寄せられました。右近のこれまでの献身を称え、「私の意志を継いでくれた君には感謝の気持ちでいっぱいです。この機会に、翔べ、という言葉を私から贈ります」と述べ、「大きく、高く翔べ! いつも応援しております」とのエールで締めくくった猿翁は、師匠として愛弟子に直筆の色紙も渡していました。
「“翔べ”という言葉を賜りました」と、猿翁からの色紙を披露した右近は、「師匠が演劇人生の中で培ってこられた宙乗り、『ヤマトタケル』の天翔る心、その思いをもって、天高く飛び立て、新しい名前になって飛び立つんだとの意味が含まれている気がしております。今後の人生の指針になっていくでしょう。本当に幸せ者だと思っております」と、色紙を手にしばし声を詰まらせました。
二代目市川右近の初舞台も
会見では右團次襲名と同時に、右近の長男、タケルが二代目市川右近を名のって初舞台を踏むことも発表されました。「来年1月に父(とう)の名前の市川右近になります。一所懸命頑張ります。どうぞよろしくお願いします」。マイクを手にした姿がなんとも可愛らしく、6歳になったばかりとは思えないしっかりとしたご挨拶でした。猿翁がスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』から命名したタケル、必ずや澤瀉屋の精神を継いでくれることでしょう。
41年余、名のってきた市川右近の名を自分の息子に譲ることについて、「師匠に育てていただいた自分の人生そのものを、息子に譲ることになるのかな。自分と彼の人生を重ねながら指導していくことになるのでは」と、目を細めて話した右近。6月の歌舞伎座『義経千本桜』がタケルの初お目見得となりますが、「安徳帝は長い時間舞台に出ておりますので、耐えてくれることを祈って」、稽古の日々が続いているそうです。
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右近の人生から切り離すことのできない師匠、猿翁が、スーパー歌舞伎をはじめとする新しい歌舞伎を生み出した場所、澤瀉屋の二代目猿翁、四代目猿之助、九代目中車が襲名披露した場所、そして右近自身が師のもとで輝きを放ってきた場所、新橋演舞場での襲名披露。右團次として新たな飛躍を見せるのに、これほどふさわしい劇場はありません。三代目市川右團次襲名披露、二代目市川右近初舞台は、来年1月の「寿新春大歌舞伎」で行われます。
※澤瀉屋の「瀉」のつくりは、正しくは“わかんむり”です。
※高嶋屋の「高」は正しくは“はしご高”です。