歌六、歌昇の屋号が「播磨屋」へ ~新橋演舞場「秀山祭九月大歌舞伎」
9月、新橋演舞場は「秀山祭九月大歌舞伎」が上演されます。「秀山祭」は初代中村吉右衛門の志を現代に継承する公演として、平成18年に歌舞伎座で始まり、今年初めて新橋演舞場で行われる事になりました。さらにこの9月公演で、中村歌六、中村歌昇が、屋号を「萬屋」から「播磨屋」に復することが決定。話題の公演に先立ち、中村吉右衛門、中村歌六、中村歌昇が記者取材会を行い意気込みを語りました。
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中村 吉右衛門
この度、歌六さん、歌昇さんが播磨屋に復することになり大変喜んでおります。と申しますのも、昨年又五郎のおじさんが亡くなり、播磨屋が私1人になってしまい、大変寂しい思いを致しておりました。さらに、播磨屋の創始者は初代中村歌六でございますから、吉右衛門のルーツができたようで、本当に嬉しく思っています。
歌六さん、歌昇さんと舞台でご一緒すると、細かい話をせずともパッと息が合い「これも血だなぁ」と常々感じております。私たちのご先祖は関西の出身で、関西の方々の持っている愛嬌というものが、三代目時蔵のおじさんや初代吉右衛門にもありました。それがきっと私たちにもあるのですね。言わず語らずでも通じ合える、これは一緒に舞台を勤める人間にとって大変貴重な事です。
秀山祭の『沼津』におきまして、お二人が播磨屋に復するということを狂言半ばでご披露させていただきます事、これほど嬉しい事はありません。お二人に感謝するとともに、三代目歌六が残し、初代吉右衛門が大成させた播磨屋の芸を、これから三人でまもり伝えていきたいと思っております。
中村 歌六
播磨屋の子供として生まれましたが、20歳の時(1971年)に、叔父の初代中村錦之助(1972年に萬屋錦之介と改名)らと供に萬屋に改名させていただきました。以来39年、萬屋として皆と一緒に頑張って参りましたが、昨年、祖父(三代目中村時蔵)の五十回忌を済ませ、また私が還暦を迎える区切りの本年、字は違いますが、本家帰り(本卦帰り)をさせていただくことになりました。
播磨屋という屋号はやはり私たちのルーツですので、照れくさいのですが、久しぶりに家に帰ってきたような気持ちでおります。今回、私や歌昇の息子達(歌六:米吉・龍之助、歌昇:種太郎・種之助)も一緒に改名をさせていただきます。これからは播磨屋の一員として、ご先祖の名に恥じませぬよう、また播磨屋の芸というものを、吉右衛門のお兄さんに教わり勉強しながら、一生懸命精進してまいる所存でございますので、今後とも宜しくお願い申し上げます。
中村 歌昇
私も子供の頃は播磨屋を名乗っており、この度39年ぶりに播磨屋に復することになりまして、とても嬉しい気持ちであると同時に、子役の頃、大向うから掛っていた播磨屋という屋号に戻ることを、とても懐かしく感じています。
これから先、吉右衛門のお兄さんの元で播磨屋の芸というものを勉強させていただき、またその芸を私と兄の子供達にも伝えていくことができたらと思っております。その為にもこの後も一層の精進が必要と思いますので、吉右衛門のお兄さんの舞台に対する姿勢、播磨屋の心を学んでいきたいと思っています。